カテゴリー: 政治

  • ロシアを助けるのではなく、利用する――日本に必要な「きれいごと抜き」の外交

    5月下旬、日本がロシアへ経済訪問団を派遣するという話が出ている。

    ウクライナ侵攻が続く中で、ロシアに近づくというだけで批判されやすい。
    「今さらロシアと経済交流か」
    「G7の足並みを乱すのか」
    「ウクライナ支援と矛盾するのではないか」

    そう見えるのも当然だと思う。

    ただ、自分はこの動きを単純な「親ロ外交」や「友好外交」と見るべきではないと思っている。むしろこれは、日本が弱ったロシアに対して、かなり冷徹に立ち回ろうとしている動きではないか。

    一言でいえば、ロシアを助けるためではなく、ロシアを中国に完全に取らせないための接触である。

    ロシアの中国依存は、日本にとっても問題になる

    ウクライナ戦争以降、ロシアは西側から制裁を受け、中国への依存を強めている。
    エネルギーの売り先、工業製品の供給元、金融・決済、外交的な後ろ盾。これらが中国に偏っていけば、ロシアはどんどん中国の下位パートナーになっていく。

    一見すると、日本にとっては「ロシアが弱るならいいこと」に見える。

    だが、そこまで単純ではない。

    日本にとって最悪なのは、ロシアが中国に完全従属し、中国・ロシア・北朝鮮が日本海、オホーツク海、北方領土、北海道方面で一体化していくことだ。
    ロシアが中国の資源基地、軍事的後背地、対日圧力の補助装置になってしまえば、日本の安全保障環境はさらに悪化する。

    だから日本としては、ロシアを助ける必要はないが、ロシアが中国一辺倒になるのを放置するのも危険だ。

    ここに、日本がロシアへ近づく理由がある。

    これは友好外交ではなく、権益と情報の回収である

    今回の動きが企業主体であるなら、少なくとも表向きは友好外交ではない。

    企業がロシアに行く理由は、「ロシアと仲良くしたい」ではない。
    見たいのは、おそらく以下のようなものだ。

    サハリンなど既存権益の状況。
    エネルギー供給の安定性。
    海運・港湾・極東ビジネスの余地。
    ロシア側がどれほど中国依存に苦しんでいるか。
    戦争後、あるいは停戦後に、どの分野で再参入できるか。

    つまり、握手しに行くというより、弱った市場の棚卸しに近い。

    はっきり言えば、ハゲタカ的である。
    だが国家外交とは、そもそもかなりハゲタカ的なものだ。

    相手が弱っている時に、どの権益を拾えるか。
    どこに楔を打てるか。
    どの国に完全に飲み込まれるのを防げるか。
    こういう冷たい計算こそが、現実の外交だと思う。

    ウクライナ支援とロシア接触は、必ずしも矛盾しない

    もちろん、日本がロシアを本格的に支援してしまえば問題だ。
    制裁逃れに協力したり、軍事転用可能な技術を流したり、ロシア経済を露骨に救済したりすれば、それはウクライナ支援ともG7の制裁方針とも矛盾する。

    だが、すべての接触が「ロシア支援」になるわけではない。

    自分の考えでは、日本が取るべき姿勢はこうだ。

    ウクライナには支援する。
    ロシアには取引する。
    中国には楔を打つ。
    G7には制裁維持を示す。
    国内向けには国益とエネルギー安全保障を説明する。

    この非対称な立ち回りなら成立する。

    ウクライナ支援は、領土保全や侵略否定の原則を守るために必要だ。
    ロシアとの接触は、ロシアを中国に完全固定させないために必要だ。

    これは道徳的にはきれいに見えない。
    だが、日本の安全保障を考えるなら、むしろそのくらいの二枚腰が必要だと思う。

    G7は信じるものではなく、使うもの

    この話になると、G7との関係も問題になる。

    たしかに、今のG7の意義は昔よりかなり怪しくなっている。
    世界経済に占める比率は低下し、アメリカは政権ごとに方針が揺れ、ヨーロッパも日本も人口や産業の面で衰退感がある。

    「G7が世界を代表する」という時代では、もうない。

    ただし、G7が無意味になったわけでもない。
    金融、制裁、技術標準、海運保険、半導体、重要鉱物、輸出管理。こういう分野では、G7の影響力はまだ大きい。

    だから日本は、G7を信じる必要はない。
    しかし、捨てる必要もない。

    日本にとってG7は、価値観の共同体というより、交渉用の盾であり、棍棒であり、名義貸し装置である。

    アメリカも信用しすぎてはいけない。
    だが、軍事力、金融、AI、クラウド、半導体設計、資本市場では、まだ圧倒的な力を持っている。

    つまり日本は、
    アメリカを使う。
    G7を使う。
    インド、中東、ASEAN、豪州も使う。
    必要ならロシア極東の余白も使う。

    そのうえで、最終的な国益判断は日本自身が持つべきだ。

    戦争は「終わる」のではなく、「凍結される」可能性が高い

    ロシアとウクライナの戦争は、いずれ終わるだろう。
    しかし、自分は完全な和平で終わる可能性は低いと思っている。

    より現実的なのは、朝鮮戦争型の凍結だ。

    前線が固定される。
    停戦ラインができる。
    だが領土問題は解決しない。
    制裁も完全には解除されない。
    ウクライナは占領地を正式には認めない。
    ロシアも完全撤退しない。

    つまり、戦争が「終わる」というより、終わったことにされる可能性が高い。

    その時、日本が完全にロシアとの接点を失っていたらどうなるか。
    ロシア極東、エネルギー、北極海航路、港湾、海運、資源権益を、中国、インド、中東に取られるだけになる。

    だから日本が今のうちに細い接点を残すのは、かなり現実的な動きだと思う。

    日本に必要なのは、善人外交ではなくリアリズム外交

    日本はどうしても、外交を道徳の問題として見がちだ。

    悪い国とは付き合わない。
    正しい国を支援する。
    西側と足並みをそろえる。
    国際秩序を守る。

    もちろん、それは大事だ。

    だが、国家は善人であるだけでは生き残れない。
    特に日本は、中国、ロシア、北朝鮮という厄介な隣国を抱えている。しかも、頼りにしているアメリカも以前ほど安定した存在ではない。

    であれば、日本に必要なのは「正義の外交」だけではない。
    正義を掲げながら、裏では国益を拾いに行く外交である。

    ウクライナを支援する。
    ロシアを中国から少しでも引き剥がす。
    G7の枠組みは使うが、盲信しない。
    アメリカには依存するが、信用しすぎない。
    ロシアとは友好ではなく、限定的に取引する。

    こういう外交は、きれいではない。
    だが、きれいな外交だけで日本の安全保障は守れない。

    今回のロシア訪問団が本当に意味を持つとすれば、それは「日ロ友好」のためではない。
    弱ったロシアの隙間に入り込み、中国の影響力を少しでも削り、日本のエネルギーと安全保障のカードを残すためだ。

    そう考えれば、この動きは単なる親ロではない。
    むしろ、日本がようやく少しだけ現実主義的に動き始めた兆候なのかもしれない。

  • なぜ左翼運動は「日本人目線」で支持されにくいのか――国旗、デモ、平和主義、そして“正義の暴力”


    左翼と呼ばれる人たち、とくにデモや街頭運動で目立つタイプの左翼を見ていると、どうにも支持しづらいと感じることがある。

    もちろん、左翼的な政策そのものには、理解できる部分も多い。労働者の権利、貧困対策、格差是正、福祉、反差別、反戦。これらのテーマ自体は、普通に考えて重要だ。

    それなのに、実際に目に入る左翼運動には、どこか距離を感じる。

    その理由の一つは、彼らが「日本社会を良くしたい人たち」というより、しばしば「日本という共同体そのものに距離を取っている人たち」に見えてしまうからではないかと思う。

    左翼=無政府主義ではないが、反国家的に見えることは多い

    まず整理しておくと、左翼がすべて無政府主義者というわけではない。

    左翼にもいろいろある。国家を使って福祉や再分配を強めようとする社会民主主義もあれば、議会政治を通じて社会を変えようとする穏健左派もいる。一方で、国家そのものを支配装置と見なし、警察、軍隊、国境、資本、天皇制などを強く否定する反国家的な左翼もいる。

    一般の人が街頭やデモでよく目にするのは、後者の印象が強い。

    だから「左翼=無政府主義者」とまでは言えないが、少なくとも運動型の左翼には、国家や国民国家への強い不信感があるように見える。

    なぜ左翼は国旗を振らないのか

    象徴的なのが国旗だ。

    右派や保守系の集会では、国旗がよく使われる。日本なら日の丸、アメリカなら星条旗、フランスならトリコロール。国旗は「この国を守る」「この国の伝統や秩序を大切にする」というメッセージになりやすい。

    一方、左翼系のデモでは、自国の国旗があまり出てこない。出てくるのは、赤旗、黒旗、組合旗、反戦旗、レインボーフラッグ、パレスチナ旗などだ。

    これは偶然ではない。

    左翼運動にとって、国旗は単なる「国の印」ではない。国家権力、軍隊、国境、同化圧力、多数派ナショナリズムの象徴に見えやすい。とくに日本の場合、日の丸や君が代は、戦前体制、軍国主義、天皇制、学校での強制問題と結びついて語られてきた。

    だから彼らは国旗を避ける。

    だが、普通の日本人の感覚は少し違う。多くの人にとって、日本とは国家権力だけではない。家族、地域、言葉、学校、仕事、文化、食べ物、治安、インフラ、思い出を含む生活圏そのものだ。

    そこで国旗を強く拒絶されると、一般層にはこう見える。

    「この人たちは政府を批判しているのではなく、日本そのものが嫌いなのではないか」

    ここで大きなズレが生まれる。

    左翼は「日本を良くする勢力」に見えにくい

    日本人の多くは、別に強烈な右翼ではない。

    「戦争は嫌だ」
    「でも日本は好きだ」
    「生活を守ってほしい」
    「治安も守ってほしい」
    「外国にも舐められたくない」
    「賃金を上げてほしい」
    「地方や中小企業も大事にしてほしい」

    このくらいの感覚だと思う。

    だから本来、左翼が支持を広げるなら、こういう言い方の方が強い。

    日本人の生活を守る。
    労働者の賃金を守る。
    地方を守る。
    医療、介護、教育を守る。
    中小企業を守る。
    だから、大企業優遇や利権政治や過剰な軍事偏重を批判する。

    この形なら、かなり受け入れられやすい。

    いわば、愛国左派、生活保守型左派、国民左派のような方向である。

    しかし、実際に目立つ左翼運動は、しばしば「日本を守りながら改善する」という言葉ではなく、「日本を疑い、解体し、相対化する」という言葉で語る。

    だから多くの人は、政策以前にこう感じてしまう。

    「この人たちは、こちら側の人なのか?」

    これが支持しづらさの根本にある。

    なぜデモで踊るのか

    もう一つ、左翼系デモでよく見られるのが、歌、太鼓、踊り、仮装、フェスのようなノリである。

    これは日本だけではなく、世界的にかなり共通している。

    理由はいくつかある。

    まず、仲間意識を作るためだ。デモは不安や恐怖を伴う。歌や踊りでリズムを共有すると、参加者は「自分たちは一人ではない」と感じやすくなる。

    次に、怒りを暴力ではなく祭りに変換するためだ。反戦、反差別、反資本、反警察、反政府といったテーマは、放っておくと攻撃的になりやすい。そこで音楽や踊りを入れることで、怒りをカーニバル化する。

    さらに、国家的な規律への対抗という意味もある。右派や国家側の儀礼は、国旗、国歌、整列、制服、黙祷、行進など、秩序と威厳を重視する。それに対して左翼運動は、踊る、歌う、座り込む、仮装する、道を占拠することで、国家的な「きちんとした身体」を崩そうとする。

    ただ、日本人目線では、ここがまた支持しづらい。

    重いテーマを扱っているのに踊っていると、「本気で困っているのか、ただ騒ぎたいだけなのか分からない」と見えてしまうからだ。

    左翼側からすれば、苦しい問題だからこそ楽しく参加できる形にしているのだろう。だが、一般層から見ると、生活を良くする真面目な政治運動ではなく、「反国家っぽいフェス」に見えてしまう。

    反戦なのに、なぜ暴力的になるのか

    さらに分かりにくいのが、反戦や平和を訴える人たちが、ときに暴力的・攻撃的になることだ。

    これは一見、矛盾している。

    平和を求めるなら、自分たちも非暴力を徹底するべきではないか。そう考えるのは自然だ。

    しかし、運動内部の論理では、必ずしもそうなっていない。

    彼らにとって「戦争」とは、国家が軍隊を使って行う巨大な暴力である。一方、警察との衝突、道路封鎖、建物占拠、物の破壊などは、「抑圧への抵抗」や「直接行動」として扱われることがある。

    つまり、彼らの中ではこう区別されている。

    国家による暴力は悪い。
    しかし、国家や資本や警察への抵抗は、暴力ではなく抵抗である。

    外から見ると、かなり無理がある。

    だが、本人たちは「相手の方が先に巨大な暴力を振るっている」と考える。警察、軍隊、資本主義、差別構造、入管、植民地主義。そうしたものを日常的な暴力と見なすため、自分たちの実力行使は「正当防衛」に見える。

    ここで危険なのは、自分たちの暴力だけは綺麗な暴力になってしまうことだ。

    「暴力ではない、奪還だ」という言い換え

    この構造は、中国やロシアのような権威主義国家が使う論法にも似ている。

    たとえば、ある国が他国の領土に侵攻したとする。普通に見れば侵略である。だが、侵攻した側はこう言う。

    「侵略ではない」
    「歴史的に本来こちらのものだった」
    「盗まれたものを取り返しただけだ」
    「相手はファシストだ」
    「我々は解放しているだけだ」
    「これは防衛である」

    こうして、自分たちの暴力を「暴力」ではなく、「奪還」「解放」「防衛」「秩序回復」と呼び替える。

    左翼過激派の暴力正当化にも、似た構造がある。

    「暴力ではない、抵抗だ」
    「破壊ではない、直接行動だ」
    「攻撃ではない、反ファシズムだ」
    「秩序を乱しているのではない、不正な秩序を壊しているのだ」

    もちろん、国家による軍事侵攻と、デモの現場での衝突は規模がまったく違う。同列に扱うべきではない。

    しかし、思考の型は似ている。

    自分たちは常に被害者である。
    相手が先に悪い。
    だから自分たちの加害は加害ではない。
    それは抵抗であり、解放であり、正義である。

    この構文は非常に危険だ。

    なぜなら、これを使えば、右でも左でも国家でも運動でも、いくらでも暴力を正当化できてしまうからだ。

    問題は「平和」という言葉ではなく、手段である

    平和、反戦、反差別、解放、正義。
    これらの言葉自体は美しい。

    しかし、美しい言葉は、暴力のラベル貼り替えにも使われる。

    だから重要なのは、スローガンではない。

    その行為は、誰の身体、自由、財産、生活を侵害しているのか。
    その侵害は、本当に必要最小限なのか。
    同じ理屈を相手側にも許したらどうなるのか。
    目的が正しければ、どんな手段でも許されるのか。

    ここを見ないと、簡単に「正義の暴力」に行き着く。

    日本で左翼が支持されにくい理由

    結局、日本で左翼運動が支持されにくい理由は、政策の中身だけではない。

    むしろ、見え方の問題が大きい。

    国旗を避ける。
    国歌を嫌う。
    自衛隊を強く否定する。
    日本の歴史を加害性中心で語る。
    デモでは踊り、太鼓を叩き、フェスのようなノリになる。
    平和を訴えながら、攻撃的な言葉や実力行使を正当化することがある。

    こうした姿を見た普通の人は、こう感じる。

    「この人たちは、日本社会を良くしたいのか。それとも日本という枠組み自体を壊したいのか」

    ここで支持の入口が閉じてしまう。

    本来、左翼が本気で広く支持を得たいなら、「反国家」「反権力」「反日本的」に見える言葉よりも、「この国に暮らす人々の生活を守る」という言葉を前面に出すべきだったのだと思う。

    日本人の賃金を守る。
    地方を守る。
    医療を守る。
    教育を守る。
    中小企業を守る。
    若者と高齢者の生活を守る。
    だから政治を変える。

    この言い方なら、普通の人にも届く。

    しかし、現実に目立つ左翼運動は、しばしばそこからズレている。だから、たとえ掲げているテーマが正しくても、支持されにくい。

    まとめ

    左翼運動が支持されにくいのは、単に「左翼だから」ではない。

    問題は、彼らがしばしば「日本人の生活を守る勢力」ではなく、「日本という共同体に敵対的な勢力」に見えてしまうことだ。

    国旗を振らないこと。
    デモで踊ること。
    平和を訴えながら攻撃的になること。
    自分たちの実力行使を「暴力」ではなく「抵抗」と呼び替えること。

    これらはすべて、運動内部では理屈があるのだろう。

    だが、外から見れば、強い違和感がある。

    特に日本社会では、政治運動に対して「真面目さ」「穏当さ」「生活感」「共同体への愛着」が求められやすい。その感覚から見ると、左翼運動はあまりにも反国家的で、フェス的で、自己正当化が強く見えてしまう。

    だから支持しづらい。

    平和や正義を語るなら、まず自分たちの手段も問われるべきだと思う。
    自分の暴力だけを「抵抗」と呼び、相手の暴力だけを「暴力」と呼ぶなら、それは結局、どこかの大国が使う「侵略ではない、奪還だ」という論法と同じ構造になってしまう。

    正義を語る人間ほど、自分の加害性に鈍感になりやすい。

    そこにこそ、一番注意しなければならない。