投稿者: Noobu

  • DeepSeekに中国の弱点を聞いたら、「話題を変えましょう」と言われた

    中国発のAIであるDeepSeekを使っていて、面白いことに気づいた。

    DeepSeekは、コードや要約、一般的な情報整理にはかなり使える。安くて速いし、論点をきれいにまとめる能力も高い。だが、中国に関する話題、とくに中国政府や中国社会の構造的な弱点に触れる話になると、急に空気が変わる。

    最初は普通に答えていたのに、ある地点を越えると突然、

    こんにちは。この問題には今のところ答えられません。別の話題にしましょう。

    という返答になる。

    この挙動がかなり興味深かった。

    DeepSeekは「中国を知るAI」ではなく「中国がどう語りたいかを見るAI」

    DeepSeekを中国について調べるために使う場合、私は「真実を教えてくれるAI」としては見ていない。

    むしろ、使い道としては逆だ。

    DeepSeekは、中国側の公式ナラティブを観察する道具として見ると非常に面白い。

    中国政府はこの問題をどう説明したがるのか。
    どの言葉を使いたがるのか。
    どの論点を避けるのか。
    どこから急に回答が硬くなるのか。
    どこで会話自体を打ち切るのか。

    そこにこそ情報がある。

    つまり、DeepSeekの価値は回答そのものだけではない。
    拒否、沈黙、言い換え、話題変更のタイミングにある。

    中国進出のリスクとコストについては答えた

    今回、私は中国で何かをする場合のリスクとコストについて話していた。

    結論として、中国で事業をするには、かなり大きな「見えない負債」を見込む必要があるのではないか、という話だった。

    たとえば、国際的な情報アクセスの問題がある。

    中国では、海外との通信や情報収集に制約がある。ビジネスをするうえで、国際的な情報の流れに自由にアクセスできないことは大きなコストになる。企業や組織によっては、専用線や認可された通信手段を使う必要が出てくる。これは一種の「情報インフラ税」のようなものだ。

    さらに、ルール変更リスクもある。

    昨日までグレーだったものが、ある日突然アウトになる。VPN規制、情報管理、データ越境、プラットフォーム規制など、制度が急に変わる可能性がある。長期的な事業計画において、これは非常に大きなリスクになる。

    そして皮肉なことに、中国では「自由な情報アクセス」が、ある種の有料サービス化しているように見える。

    本来、ネットの自由や情報へのアクセスは、現代のビジネスにおいて基礎インフラに近い。しかし中国では、それを得るために追加コストや制度的な対応が必要になる。これは企業にとっても、個人にとっても重い。

    ここまではDeepSeekも普通に答えていた。

    「中国進出にはリスクとコストがある」
    「情報インフラの固定費がある」
    「ルール変更の不確実性がある」
    「それでも巨大市場や国家プロジェクトのリターンがある」

    このあたりの話は、まだ許容範囲だったのだと思う。

    しかし「高度人材の争奪戦」で拒否された

    問題はその次だった。

    私はこう書いた。

    だから高度人材っていう「人」の争奪戦において、中国が勝つ世界線が想像できない

    するとDeepSeekは、急に中国語でこう返してきた。

    你好,这个问题我暂时无法回答,让我们换个话题再聊聊吧。

    日本語にすると、

    こんにちは。この問題には今のところ答えられません。別の話題にしましょう。

    という意味だ。

    ここが非常に面白い。

    中国進出のリスクやコストについては答えられる。
    中国には見えない固定費がある、という話もできる。
    ルール変更リスクの話もできる。

    しかし、そこから一歩進んで、

    「だから中国は高度人材の争奪戦で不利なのではないか」

    という結論に触れた瞬間、回答を拒否した。

    この境界線はかなり示唆的だと思う。

    中国の本当の弱点は「人が選ぶかどうか」ではないか

    中国には巨大市場がある。
    産業基盤もある。
    国家資金もある。
    インフラもある。
    製造業の集積もある。
    政府主導で大きなプロジェクトを動かす力もある。

    これらは確かに強い。

    だから中国で事業をする企業や人材がいること自体は不思議ではない。リスクやコストを上回るリターンが見込めるなら、中国を選ぶ合理性はある。

    しかし、高度人材の争奪戦になると話が変わる。

    高度人材は、単に給料だけで動くわけではない。
    研究者、エンジニア、起業家、クリエイター、投資家、経営者のような人たちは、次のような要素を総合的に見て動く。

    自由に情報へアクセスできるか。
    自由に調べられるか。
    自由に発言できるか。
    突然ルールが変わらないか。
    資産を守れるか。
    家族を安心して住ませられるか。
    子どもの教育環境はどうか。
    国際的に移動しやすいか。
    政治的リスクに巻き込まれないか。
    創作や研究の自由があるか。

    つまり、高度人材にとって重要なのは、単なる市場規模や給与ではない。
    自分の人生をそこに置けるかどうかだ。

    ここで中国はかなり不利になるのではないか、というのが私の直感だった。

    そしてDeepSeekがその論点を拒否したことは、逆にその弱点を浮き彫りにしているように見えた。

    「中国にはリスクがある」はOK、「だから人材に選ばれない」はNG

    今回のやり取りで見えた境界線は、かなり明確だった。

    DeepSeekは、中国にリスクやコストがあることまでは認められる。
    しかし、そのリスクやコストが原因で、世界の高度人材が中国を選ばない可能性については答えにくい。

    これは単なるビジネス論ではない。
    中国という国家モデルの将来性そのものに触れる話だからだ。

    中国政府の建前では、中国は発展している。
    中国は科学技術強国になる。
    中国には巨大市場がある。
    中国には未来がある。
    優秀な人材も中国に集まる。

    しかし、高度人材の争奪戦という視点で見ると、そこに疑問が出てくる。

    国家がいくら資金を投じても、個人が「ここで生きたい」と思わなければ、人材は定着しない。
    市場が大きくても、情報アクセスが不自由なら、研究や開発には不利になる。
    給料が高くても、ルール変更リスクが大きければ、人生設計は難しくなる。
    国策プロジェクトがあっても、自由に考えられない環境では、創造性のある人材ほど息苦しくなる。

    だから、中国の本当の弱点は、GDPや工場や軍事力だけでは測れない。

    優秀な個人が、自分の人生を中国に賭けたいと思うかどうか。

    ここにあるのではないか。

    DeepSeekの拒否は、むしろ情報だった

    今回のDeepSeekの返答は、普通に見ればただの回答拒否である。

    だが、観察対象として見ると、これは非常に面白い。

    何に答えられて、何に答えられないのか。
    どこまでなら許されて、どこから先は止まるのか。
    どの論点が中国側にとって本当に痛いのか。

    それが見えるからだ。

    台湾や天安門のような露骨な政治問題で拒否されるのは、ある意味で予想通りだ。

    しかし、競争社会、少子化、高度人材、情報アクセス、制度リスクのような話題で拒否されると、より本質的なものが見えてくる。

    中国にとって痛いのは、単なる反政府スローガンではない。
    むしろ、

    中国社会の構造そのものが、若者や高度人材にとって魅力的なのか

    という問いなのだと思う。

    DeepSeekは「裁判官」ではなく「資料A」として使うべき

    DeepSeekは使えないAIではない。
    むしろ、かなり有能なAIだと思う。

    コード、要約、翻訳、仕様書作成、定型処理などでは十分に使える。
    中国側の公式見解や説明ロジックを知る用途でも役に立つ。

    ただし、中国に関する分析の「裁判官」にしてはいけない。

    DeepSeekの回答は、あくまで、

    資料A:中国側がどう語りたいか

    として扱うべきだと思う。

    そのうえで、他の情報源や別のAI、一次資料と照合する。
    DeepSeekが何を答えたかだけでなく、何を答えなかったかを見る。
    そこまで含めて使うと、かなり面白い道具になる。

    今回のやり取りで一番印象に残ったのは、DeepSeekの回答ではない。

    むしろ、回答拒否だった。

    「話題を変えましょう」

    この一文は、中国の弱点を雄弁に語っているように見えた。

  • 「人件費を削れば強くなる」は本当だったのか?日本が低賃金国家になった30年

    私が若い頃、日本では「日本は人件費が高すぎる」「企業が国際競争に勝つには人件費を削らなければならない」という論調がかなり強かった。

    バブル崩壊後の日本企業は、賃金抑制、非正規雇用の拡大、外注化、下請けへのコスト転嫁、採用抑制などを進めた。
    当時はそれが「合理化」であり、「経営努力」であり、「グローバル競争に勝つための当然の対応」と見なされていた。

    しかし、今振り返ると、これはとんでもない愚策だったのではないかと思う。

    もちろん、企業単体で見れば人件費はコストだ。
    人件費を削れば、短期的には利益が出やすくなる。決算上も見栄えが良くなる。経営者にとっては、もっとも手っ取り早い改善策だったのかもしれない。

    だが、社会全体で見れば人件費は単なるコストではない。
    誰かの給料であり、消費力であり、税収であり、次世代への投資原資でもある。

    企業が一斉に人件費を削れば、当然ながら家計所得は伸びない。
    家計所得が伸びなければ、消費も伸びない。
    消費が伸びなければ、企業は値上げできない。
    値上げできなければ、またコスト削減に向かう。

    つまり日本は、賃金を削ることで企業を守ろうとした結果、国全体の購買力を痩せさせてしまった。

    本来、日本がやるべきだったのは、人件費の安い新興国と同じ土俵で戦うことではなかったはずだ。

    中国や東南アジアのような新興国と、単純な労働コストで勝負しても勝てるわけがない。生活コストも、社会保障も、インフラ水準も、教育水準も違う。先進国である日本が、新興国並みの人件費を目指すというのは、国民生活を壊す方向でしかない。

    日本が目指すべきだったのは、
    「安く作る国」ではなく、
    「高く売れる国」だった。

    高品質、高信頼性、ブランド、設計力、素材、部品、工作機械、医療、ロボット、観光、文化、コンテンツ、知財ビジネス。
    そうした高付加価値の領域で勝負し、人件費が高くても成立する産業構造に移行するべきだった。

    ところが現実には、多くの企業がそこへ行き切れなかった。
    なぜなら、高付加価値化は難しいからだ。

    商品企画、マーケティング、デザイン、ソフトウェア、ブランド投資、海外展開、組織改革。
    これらには時間も金もかかるし、失敗もある。

    一方で、人件費削減はすぐ効く。
    昇給を止める。
    非正規に置き換える。
    外注に出す。
    下請けを叩く。
    サービス残業で吸収する。

    これで短期的には利益が出る。
    だから多くの企業は、人件費を削ることを経営能力だと勘違いしてしまった。

    しかし、それは本当の経営ではなく、縮小均衡だったのではないか。

    人件費を安く抑えられると、企業は改革しなくなる。
    本来、人件費が高ければ、自動化する、業務を標準化する、無駄な会議や紙仕事を減らす、価格転嫁を進める、商品やサービスの付加価値を高める、といった改革圧力が生まれる。

    しかし、安い人間で穴埋めできるなら、企業は変わらなくても済んでしまう。

    その結果、日本企業は、人を安く使うことで、むしろ生産性改革を先送りしてしまった。

    そして今、日本はそのツケを払っている。

    人件費を上げきれず、人材獲得競争で弱い国になってしまった。
    国内の若者から見れば、頑張っても給料が上がりにくい。
    管理職になっても割に合わない。
    転職しても大きく待遇が改善しにくい。
    将来不安が強く、結婚や出産にも踏み切りにくい。

    外国人材から見ても、日本の魅力は以前ほど強くない。
    円安で賃金は相対的に安く見える。日本語という高い参入障壁がある。昇進も遅い。職場文化も硬い。
    韓国、台湾、シンガポール、オーストラリア、カナダ、欧州、中東などと比較されたとき、優秀な人材ほど日本を選ぶ理由が薄くなっている。

    かつて日本企業は「労働者を選ぶ側」だった。
    しかし今は、労働者が企業を選ぶ時代になっている。

    それなのに、多くの企業はまだ「この仕事をいくら安く埋められるか」という発想から抜け出せていない。
    本来考えるべきなのは、「この人にいくら払えば、どれだけ事業価値が増えるか」だ。

    この差は大きい。

    ただし、今後の日本がまったく良くならないかというと、そうとも思わない。
    むしろ、強制的に正常化していく可能性はある。

    人手不足は深刻だ。
    賃金を上げられない企業には人が来ない。
    価格転嫁できない企業は利益を出せない。
    低賃金・長時間労働・人海戦術で成り立っていた事業は、これからますます維持しづらくなる。

    さらに外国人労働者についても、昔のように「安く縛って使う」やり方は難しくなっていくだろう。
    技能実習制度は見直され、育成就労へ移行する。転籍の自由度も高まり、外国人にも日本人と同等以上の待遇を求める方向へ進んでいる。

    つまり、「外国人を入れれば安く回る」という時代ではなくなりつつある。
    今後は、外国人にも選ばれる会社でなければ人を雇えない。

    これは低賃金依存の企業にとっては厳しい。
    だが、日本全体にとっては悪いことではない。

    人件費を払えない事業は、本来、人を使いすぎている低生産性事業なのかもしれない。
    そのような企業を補助金や安い労働力で延命し続けると、労働力は成長産業に移らず、国全体の生産性も上がらない。

    これから必要なのは、低賃金企業を無理に守ることではない。
    賃金を払える企業に人が移れるようにすることだ。
    価格転嫁を進め、省人化・自動化に投資し、転職やリスキリングを支援し、労働移動を妨げないことだ。

    日本は長い間、「人件費の高さ」を弱点だと考えてきた。
    しかし本来、人件費の高さは弱点ではなく、企業に高付加価値化を強制する圧力だったはずだ。

    その圧力から逃げ続けた結果、日本は「安く雇える国」にはなった。
    だが、「優秀な人に選ばれる国」ではなくなってしまった。

    これからの日本に必要なのは、人件費を削る発想ではない。
    高い人件費を払っても利益が出る産業、企業、商品、サービスを作ることだ。

    人件費は削るべきコストではなく、国の購買力そのものだ。
    そこを削り続けた国がどうなるか。
    その答えは、失われた30年がすでに示していると思う。

  • ロシアを助けるのではなく、利用する――日本に必要な「きれいごと抜き」の外交

    5月下旬、日本がロシアへ経済訪問団を派遣するという話が出ている。

    ウクライナ侵攻が続く中で、ロシアに近づくというだけで批判されやすい。
    「今さらロシアと経済交流か」
    「G7の足並みを乱すのか」
    「ウクライナ支援と矛盾するのではないか」

    そう見えるのも当然だと思う。

    ただ、自分はこの動きを単純な「親ロ外交」や「友好外交」と見るべきではないと思っている。むしろこれは、日本が弱ったロシアに対して、かなり冷徹に立ち回ろうとしている動きではないか。

    一言でいえば、ロシアを助けるためではなく、ロシアを中国に完全に取らせないための接触である。

    ロシアの中国依存は、日本にとっても問題になる

    ウクライナ戦争以降、ロシアは西側から制裁を受け、中国への依存を強めている。
    エネルギーの売り先、工業製品の供給元、金融・決済、外交的な後ろ盾。これらが中国に偏っていけば、ロシアはどんどん中国の下位パートナーになっていく。

    一見すると、日本にとっては「ロシアが弱るならいいこと」に見える。

    だが、そこまで単純ではない。

    日本にとって最悪なのは、ロシアが中国に完全従属し、中国・ロシア・北朝鮮が日本海、オホーツク海、北方領土、北海道方面で一体化していくことだ。
    ロシアが中国の資源基地、軍事的後背地、対日圧力の補助装置になってしまえば、日本の安全保障環境はさらに悪化する。

    だから日本としては、ロシアを助ける必要はないが、ロシアが中国一辺倒になるのを放置するのも危険だ。

    ここに、日本がロシアへ近づく理由がある。

    これは友好外交ではなく、権益と情報の回収である

    今回の動きが企業主体であるなら、少なくとも表向きは友好外交ではない。

    企業がロシアに行く理由は、「ロシアと仲良くしたい」ではない。
    見たいのは、おそらく以下のようなものだ。

    サハリンなど既存権益の状況。
    エネルギー供給の安定性。
    海運・港湾・極東ビジネスの余地。
    ロシア側がどれほど中国依存に苦しんでいるか。
    戦争後、あるいは停戦後に、どの分野で再参入できるか。

    つまり、握手しに行くというより、弱った市場の棚卸しに近い。

    はっきり言えば、ハゲタカ的である。
    だが国家外交とは、そもそもかなりハゲタカ的なものだ。

    相手が弱っている時に、どの権益を拾えるか。
    どこに楔を打てるか。
    どの国に完全に飲み込まれるのを防げるか。
    こういう冷たい計算こそが、現実の外交だと思う。

    ウクライナ支援とロシア接触は、必ずしも矛盾しない

    もちろん、日本がロシアを本格的に支援してしまえば問題だ。
    制裁逃れに協力したり、軍事転用可能な技術を流したり、ロシア経済を露骨に救済したりすれば、それはウクライナ支援ともG7の制裁方針とも矛盾する。

    だが、すべての接触が「ロシア支援」になるわけではない。

    自分の考えでは、日本が取るべき姿勢はこうだ。

    ウクライナには支援する。
    ロシアには取引する。
    中国には楔を打つ。
    G7には制裁維持を示す。
    国内向けには国益とエネルギー安全保障を説明する。

    この非対称な立ち回りなら成立する。

    ウクライナ支援は、領土保全や侵略否定の原則を守るために必要だ。
    ロシアとの接触は、ロシアを中国に完全固定させないために必要だ。

    これは道徳的にはきれいに見えない。
    だが、日本の安全保障を考えるなら、むしろそのくらいの二枚腰が必要だと思う。

    G7は信じるものではなく、使うもの

    この話になると、G7との関係も問題になる。

    たしかに、今のG7の意義は昔よりかなり怪しくなっている。
    世界経済に占める比率は低下し、アメリカは政権ごとに方針が揺れ、ヨーロッパも日本も人口や産業の面で衰退感がある。

    「G7が世界を代表する」という時代では、もうない。

    ただし、G7が無意味になったわけでもない。
    金融、制裁、技術標準、海運保険、半導体、重要鉱物、輸出管理。こういう分野では、G7の影響力はまだ大きい。

    だから日本は、G7を信じる必要はない。
    しかし、捨てる必要もない。

    日本にとってG7は、価値観の共同体というより、交渉用の盾であり、棍棒であり、名義貸し装置である。

    アメリカも信用しすぎてはいけない。
    だが、軍事力、金融、AI、クラウド、半導体設計、資本市場では、まだ圧倒的な力を持っている。

    つまり日本は、
    アメリカを使う。
    G7を使う。
    インド、中東、ASEAN、豪州も使う。
    必要ならロシア極東の余白も使う。

    そのうえで、最終的な国益判断は日本自身が持つべきだ。

    戦争は「終わる」のではなく、「凍結される」可能性が高い

    ロシアとウクライナの戦争は、いずれ終わるだろう。
    しかし、自分は完全な和平で終わる可能性は低いと思っている。

    より現実的なのは、朝鮮戦争型の凍結だ。

    前線が固定される。
    停戦ラインができる。
    だが領土問題は解決しない。
    制裁も完全には解除されない。
    ウクライナは占領地を正式には認めない。
    ロシアも完全撤退しない。

    つまり、戦争が「終わる」というより、終わったことにされる可能性が高い。

    その時、日本が完全にロシアとの接点を失っていたらどうなるか。
    ロシア極東、エネルギー、北極海航路、港湾、海運、資源権益を、中国、インド、中東に取られるだけになる。

    だから日本が今のうちに細い接点を残すのは、かなり現実的な動きだと思う。

    日本に必要なのは、善人外交ではなくリアリズム外交

    日本はどうしても、外交を道徳の問題として見がちだ。

    悪い国とは付き合わない。
    正しい国を支援する。
    西側と足並みをそろえる。
    国際秩序を守る。

    もちろん、それは大事だ。

    だが、国家は善人であるだけでは生き残れない。
    特に日本は、中国、ロシア、北朝鮮という厄介な隣国を抱えている。しかも、頼りにしているアメリカも以前ほど安定した存在ではない。

    であれば、日本に必要なのは「正義の外交」だけではない。
    正義を掲げながら、裏では国益を拾いに行く外交である。

    ウクライナを支援する。
    ロシアを中国から少しでも引き剥がす。
    G7の枠組みは使うが、盲信しない。
    アメリカには依存するが、信用しすぎない。
    ロシアとは友好ではなく、限定的に取引する。

    こういう外交は、きれいではない。
    だが、きれいな外交だけで日本の安全保障は守れない。

    今回のロシア訪問団が本当に意味を持つとすれば、それは「日ロ友好」のためではない。
    弱ったロシアの隙間に入り込み、中国の影響力を少しでも削り、日本のエネルギーと安全保障のカードを残すためだ。

    そう考えれば、この動きは単なる親ロではない。
    むしろ、日本がようやく少しだけ現実主義的に動き始めた兆候なのかもしれない。

  • AI時代にEVの見え方が変わった――「エコカー」ではなく「走るコンピュータ」としての優位性

    以前の私は、EVに対してかなり懐疑的だった。

    もちろん、EVにはメリットがある。加速は鋭いし、静かで、構造もシンプル。環境性能という建前もある。だが、それでもガソリン車に対して決定的に優れているとは思えなかった。

    航続距離の問題がある。
    充電時間の問題がある。
    バッテリー劣化の問題がある。
    寒冷地での性能低下もある。
    そして、車両価格も高い。

    「エンジンをモーターに置き換えただけの車」として見るなら、EVはまだ欠点の多い乗り物に見えた。

    だが、AIがここまで急速に進化してくると、EVの見え方が変わってくる。

    EVは単なるエコカーではない。
    むしろ、AI時代の車として見るなら、EVはかなり合理的なプラットフォームに見えてくる。

    なぜなら、これからの車は「機械」ではなく、どんどん「ソフトウェアで制御される移動体」になっていくからだ。

    ガソリン車は、完成度の高い機械製品である。エンジン、トランスミッション、排気系、燃料系、冷却系など、多くの機械要素が複雑に連動している。その完成度は非常に高いし、長年の技術蓄積もある。

    しかし、AIから見ると、この複雑さは必ずしも利点ではない。

    AIが車を制御する場合、重要なのは反応速度と制御のしやすさだ。モーターは入力に対する応答が速く、トルク制御もしやすい。回生ブレーキ、駆動力配分、姿勢制御、タイヤ摩耗、路面状況への対応なども、ソフトウェアで細かく最適化しやすい。

    一方、ガソリン車はどうしても機械的な遅延や制約が多い。エンジンの回転数、変速機の動作、熱管理、排気制御など、AIが介入するには複雑な要素が多すぎる。

    つまり、AIとの親和性という点では、EVのほうが素直なのだ。

    さらにEVは、大容量バッテリーを積んでいる。これは単に車を走らせるためだけのものではない。カメラ、センサー、レーダー、LiDAR、車載コンピュータ、AIチップ、通信機能などを動かすための電源としても意味を持つ。

    これからの車は、単に人間が運転する道具ではなくなる。

    車内AIアシスタントが乗る。
    自動運転AIが乗る。
    走行データを収集する。
    クラウドと連携する。
    OTAアップデートで機能が改善される。
    バッテリー劣化や故障予測もAIが行う。
    充電ルートや走行ルートもAIが最適化する。

    そう考えると、EVは「車」というより、巨大なバッテリーを積んだ走行コンピュータに近い。

    ここで重要なのは、EVの本当の強みは「エコ」だけではないということだ。

    もちろん、脱炭素や環境性能はEV普及の大きな理由として語られてきた。しかし、それだけでEVを評価すると、どうしてもガソリン車との比較は微妙になる。充電インフラや電池問題を考えれば、EVに懐疑的になるのも自然だ。

    だが、AI時代の車両基盤として見ると、話が変わる。

    EVは、AIを載せやすい。
    ソフトウェアで制御しやすい。
    データを集めやすい。
    アップデートしやすい。
    自動運転やロボタクシーと相性がいい。

    つまり、今後の競争軸は「ガソリン車かEVか」ではなくなるかもしれない。

    本質的には、

    機械中心の車か、ソフトウェア中心の車か。

    この戦いになる。

    そのとき、ソフトウェア中心の車を作りやすいのは、やはりEVだと思う。

    ガソリン車にもAIは載せられる。自動運転技術も、運転支援機能も、車内AIも搭載できる。だから短期的には、ガソリン車が一気に消えるわけではない。

    しかし中長期で見ると、AI前提の車両設計は、EVやPHVのような電動アーキテクチャに寄っていくだろう。

    以前の私は、EVを「環境規制によって無理やり推進されている車」と見ていた。
    だが今は少し違う。

    AIがここまで進化したことで、EVは「エコカー」ではなく、「AI時代の車両OS基盤」として見えるようになった。

    EVが勝つ理由は、環境性能だけではない。
    AIと統合された車を作るなら、EVのほうが設計思想として自然なのだ。

    そう考えると、EVの本命価値はこれから出てくるのかもしれない。
    EVはガソリン車の代替ではなく、AI時代の新しい移動ロボットの土台になる。

    私はそこに、以前よりもかなり強い優位性を感じるようになった。

  • なぜ左翼運動は「日本人目線」で支持されにくいのか――国旗、デモ、平和主義、そして“正義の暴力”


    左翼と呼ばれる人たち、とくにデモや街頭運動で目立つタイプの左翼を見ていると、どうにも支持しづらいと感じることがある。

    もちろん、左翼的な政策そのものには、理解できる部分も多い。労働者の権利、貧困対策、格差是正、福祉、反差別、反戦。これらのテーマ自体は、普通に考えて重要だ。

    それなのに、実際に目に入る左翼運動には、どこか距離を感じる。

    その理由の一つは、彼らが「日本社会を良くしたい人たち」というより、しばしば「日本という共同体そのものに距離を取っている人たち」に見えてしまうからではないかと思う。

    左翼=無政府主義ではないが、反国家的に見えることは多い

    まず整理しておくと、左翼がすべて無政府主義者というわけではない。

    左翼にもいろいろある。国家を使って福祉や再分配を強めようとする社会民主主義もあれば、議会政治を通じて社会を変えようとする穏健左派もいる。一方で、国家そのものを支配装置と見なし、警察、軍隊、国境、資本、天皇制などを強く否定する反国家的な左翼もいる。

    一般の人が街頭やデモでよく目にするのは、後者の印象が強い。

    だから「左翼=無政府主義者」とまでは言えないが、少なくとも運動型の左翼には、国家や国民国家への強い不信感があるように見える。

    なぜ左翼は国旗を振らないのか

    象徴的なのが国旗だ。

    右派や保守系の集会では、国旗がよく使われる。日本なら日の丸、アメリカなら星条旗、フランスならトリコロール。国旗は「この国を守る」「この国の伝統や秩序を大切にする」というメッセージになりやすい。

    一方、左翼系のデモでは、自国の国旗があまり出てこない。出てくるのは、赤旗、黒旗、組合旗、反戦旗、レインボーフラッグ、パレスチナ旗などだ。

    これは偶然ではない。

    左翼運動にとって、国旗は単なる「国の印」ではない。国家権力、軍隊、国境、同化圧力、多数派ナショナリズムの象徴に見えやすい。とくに日本の場合、日の丸や君が代は、戦前体制、軍国主義、天皇制、学校での強制問題と結びついて語られてきた。

    だから彼らは国旗を避ける。

    だが、普通の日本人の感覚は少し違う。多くの人にとって、日本とは国家権力だけではない。家族、地域、言葉、学校、仕事、文化、食べ物、治安、インフラ、思い出を含む生活圏そのものだ。

    そこで国旗を強く拒絶されると、一般層にはこう見える。

    「この人たちは政府を批判しているのではなく、日本そのものが嫌いなのではないか」

    ここで大きなズレが生まれる。

    左翼は「日本を良くする勢力」に見えにくい

    日本人の多くは、別に強烈な右翼ではない。

    「戦争は嫌だ」
    「でも日本は好きだ」
    「生活を守ってほしい」
    「治安も守ってほしい」
    「外国にも舐められたくない」
    「賃金を上げてほしい」
    「地方や中小企業も大事にしてほしい」

    このくらいの感覚だと思う。

    だから本来、左翼が支持を広げるなら、こういう言い方の方が強い。

    日本人の生活を守る。
    労働者の賃金を守る。
    地方を守る。
    医療、介護、教育を守る。
    中小企業を守る。
    だから、大企業優遇や利権政治や過剰な軍事偏重を批判する。

    この形なら、かなり受け入れられやすい。

    いわば、愛国左派、生活保守型左派、国民左派のような方向である。

    しかし、実際に目立つ左翼運動は、しばしば「日本を守りながら改善する」という言葉ではなく、「日本を疑い、解体し、相対化する」という言葉で語る。

    だから多くの人は、政策以前にこう感じてしまう。

    「この人たちは、こちら側の人なのか?」

    これが支持しづらさの根本にある。

    なぜデモで踊るのか

    もう一つ、左翼系デモでよく見られるのが、歌、太鼓、踊り、仮装、フェスのようなノリである。

    これは日本だけではなく、世界的にかなり共通している。

    理由はいくつかある。

    まず、仲間意識を作るためだ。デモは不安や恐怖を伴う。歌や踊りでリズムを共有すると、参加者は「自分たちは一人ではない」と感じやすくなる。

    次に、怒りを暴力ではなく祭りに変換するためだ。反戦、反差別、反資本、反警察、反政府といったテーマは、放っておくと攻撃的になりやすい。そこで音楽や踊りを入れることで、怒りをカーニバル化する。

    さらに、国家的な規律への対抗という意味もある。右派や国家側の儀礼は、国旗、国歌、整列、制服、黙祷、行進など、秩序と威厳を重視する。それに対して左翼運動は、踊る、歌う、座り込む、仮装する、道を占拠することで、国家的な「きちんとした身体」を崩そうとする。

    ただ、日本人目線では、ここがまた支持しづらい。

    重いテーマを扱っているのに踊っていると、「本気で困っているのか、ただ騒ぎたいだけなのか分からない」と見えてしまうからだ。

    左翼側からすれば、苦しい問題だからこそ楽しく参加できる形にしているのだろう。だが、一般層から見ると、生活を良くする真面目な政治運動ではなく、「反国家っぽいフェス」に見えてしまう。

    反戦なのに、なぜ暴力的になるのか

    さらに分かりにくいのが、反戦や平和を訴える人たちが、ときに暴力的・攻撃的になることだ。

    これは一見、矛盾している。

    平和を求めるなら、自分たちも非暴力を徹底するべきではないか。そう考えるのは自然だ。

    しかし、運動内部の論理では、必ずしもそうなっていない。

    彼らにとって「戦争」とは、国家が軍隊を使って行う巨大な暴力である。一方、警察との衝突、道路封鎖、建物占拠、物の破壊などは、「抑圧への抵抗」や「直接行動」として扱われることがある。

    つまり、彼らの中ではこう区別されている。

    国家による暴力は悪い。
    しかし、国家や資本や警察への抵抗は、暴力ではなく抵抗である。

    外から見ると、かなり無理がある。

    だが、本人たちは「相手の方が先に巨大な暴力を振るっている」と考える。警察、軍隊、資本主義、差別構造、入管、植民地主義。そうしたものを日常的な暴力と見なすため、自分たちの実力行使は「正当防衛」に見える。

    ここで危険なのは、自分たちの暴力だけは綺麗な暴力になってしまうことだ。

    「暴力ではない、奪還だ」という言い換え

    この構造は、中国やロシアのような権威主義国家が使う論法にも似ている。

    たとえば、ある国が他国の領土に侵攻したとする。普通に見れば侵略である。だが、侵攻した側はこう言う。

    「侵略ではない」
    「歴史的に本来こちらのものだった」
    「盗まれたものを取り返しただけだ」
    「相手はファシストだ」
    「我々は解放しているだけだ」
    「これは防衛である」

    こうして、自分たちの暴力を「暴力」ではなく、「奪還」「解放」「防衛」「秩序回復」と呼び替える。

    左翼過激派の暴力正当化にも、似た構造がある。

    「暴力ではない、抵抗だ」
    「破壊ではない、直接行動だ」
    「攻撃ではない、反ファシズムだ」
    「秩序を乱しているのではない、不正な秩序を壊しているのだ」

    もちろん、国家による軍事侵攻と、デモの現場での衝突は規模がまったく違う。同列に扱うべきではない。

    しかし、思考の型は似ている。

    自分たちは常に被害者である。
    相手が先に悪い。
    だから自分たちの加害は加害ではない。
    それは抵抗であり、解放であり、正義である。

    この構文は非常に危険だ。

    なぜなら、これを使えば、右でも左でも国家でも運動でも、いくらでも暴力を正当化できてしまうからだ。

    問題は「平和」という言葉ではなく、手段である

    平和、反戦、反差別、解放、正義。
    これらの言葉自体は美しい。

    しかし、美しい言葉は、暴力のラベル貼り替えにも使われる。

    だから重要なのは、スローガンではない。

    その行為は、誰の身体、自由、財産、生活を侵害しているのか。
    その侵害は、本当に必要最小限なのか。
    同じ理屈を相手側にも許したらどうなるのか。
    目的が正しければ、どんな手段でも許されるのか。

    ここを見ないと、簡単に「正義の暴力」に行き着く。

    日本で左翼が支持されにくい理由

    結局、日本で左翼運動が支持されにくい理由は、政策の中身だけではない。

    むしろ、見え方の問題が大きい。

    国旗を避ける。
    国歌を嫌う。
    自衛隊を強く否定する。
    日本の歴史を加害性中心で語る。
    デモでは踊り、太鼓を叩き、フェスのようなノリになる。
    平和を訴えながら、攻撃的な言葉や実力行使を正当化することがある。

    こうした姿を見た普通の人は、こう感じる。

    「この人たちは、日本社会を良くしたいのか。それとも日本という枠組み自体を壊したいのか」

    ここで支持の入口が閉じてしまう。

    本来、左翼が本気で広く支持を得たいなら、「反国家」「反権力」「反日本的」に見える言葉よりも、「この国に暮らす人々の生活を守る」という言葉を前面に出すべきだったのだと思う。

    日本人の賃金を守る。
    地方を守る。
    医療を守る。
    教育を守る。
    中小企業を守る。
    若者と高齢者の生活を守る。
    だから政治を変える。

    この言い方なら、普通の人にも届く。

    しかし、現実に目立つ左翼運動は、しばしばそこからズレている。だから、たとえ掲げているテーマが正しくても、支持されにくい。

    まとめ

    左翼運動が支持されにくいのは、単に「左翼だから」ではない。

    問題は、彼らがしばしば「日本人の生活を守る勢力」ではなく、「日本という共同体に敵対的な勢力」に見えてしまうことだ。

    国旗を振らないこと。
    デモで踊ること。
    平和を訴えながら攻撃的になること。
    自分たちの実力行使を「暴力」ではなく「抵抗」と呼び替えること。

    これらはすべて、運動内部では理屈があるのだろう。

    だが、外から見れば、強い違和感がある。

    特に日本社会では、政治運動に対して「真面目さ」「穏当さ」「生活感」「共同体への愛着」が求められやすい。その感覚から見ると、左翼運動はあまりにも反国家的で、フェス的で、自己正当化が強く見えてしまう。

    だから支持しづらい。

    平和や正義を語るなら、まず自分たちの手段も問われるべきだと思う。
    自分の暴力だけを「抵抗」と呼び、相手の暴力だけを「暴力」と呼ぶなら、それは結局、どこかの大国が使う「侵略ではない、奪還だ」という論法と同じ構造になってしまう。

    正義を語る人間ほど、自分の加害性に鈍感になりやすい。

    そこにこそ、一番注意しなければならない。